知っていますか? 「相対的貧困」

いきなりですが、SDGsの掲げる17のターゲットの中で、関心が「低い」のはどれですか?
関心が「高い」ほうはパッと思い浮かんでも、低い方はすぐにはなかなか浮かばないんじゃないかと思います。

企業活動であれば特に自社の事業領域にかかわりの深いものには自然と目が向き、関心も高まります。木材加工業なら「15.陸の豊かさも守ろう」に、医療福祉関係なら「3.すべての人に健康と福祉を」コミットしていくのが自然な流れですよね。

が、何しろSDGsには17コもゴールがあるわけで、意識していかないと「全てのゴールを達成する」という目標やゴール同士の連鎖性を見失う危険性があるな、と私は常々思っています。

何だかんだ言っても日本は世界第3位の経済大国。
ものづくりや医療のレベル・教育水準は高いし、先進国の責務として環境保全のへの意識も高い。国際協調にもそれなりに貢献してるし、「2.飢餓をゼロに」とか「6.安全な水とトイレを世界中に」あたりはもう与える側に立っている、と当たり前に考えている人が大多数なんじゃないでしょうか。

逆に、特に至らない部分についてはメディアが積極的に取り上げてくれるので、意識が醸成される傾向にありますね。
具体的に言うと「5.ジェンダー平等を実現しよう」ですが、日本のジェンダー・ギャップ指数は153ヵ国中121位だとか、女性政治家や官僚や管理職が際立って少ないとか、クォーター性を取り入れるべきだとか、テレビや新聞でよく見かけます。

こうした日本国内の事情を考えると、「貧困」は日本人が目を向ける機会の少ないゴールじゃないでしょうか。世界的にはこうした問題があることを認識してはいても、どこか「対岸の火事」感があるとでもいいましょうか。

今回は「貧困」について考えてみましょう。

「貧困」の定義は国や地域や機関によってさまざまですが、UNDP(国連開発計画)の例では「教育、仕事、食料、保険医療、飲料水、住居、エネルギーなど最も基本的な物・サービスを手に入れられない状態のこと」ということになっています。

こう聞くと南米のストリートチルドレンや紛争地域の難民なんかをイメージしてしまいませんか? 確かに、この水準の「貧困」に該当する人も「日本にもゼロではないだろうけど、そう多くはないだろう」という印象を持ちそうになります。

UNDPの定義とは別に「絶対的貧困」と「相対的貧困」という考え方もあります。
「絶対的貧困」は前述したUNDPのいう貧困状態のこと。「相対的貧困」は「国や社会、地域など一定の母数の大多数より貧しい状態のこと」を差します。

所得でいえば「国民の所得の中央値の半分未満であれば相対的貧困にあたる」とされ、日本の場合は年収約122万円以下ということになります。
月収にならせば10万円程度。だんだんリアルになってきましたね。

ところで、厚生労働省の「毎月勤労統計調査 令和2年分結果確報」によると、パート収入の全国月間平均額は99,378円。

10万円、切ってます。

まあこれには「家事育児との両立を考えて労働時間をセーブしている人」や「配偶者の扶養の範囲内で働きたい人」「年金などメインの収入があるので追加の収入はちょっとでいい人」「働きがいを求めたり社会との接点を絶やさないために働くのであって、収入は二の次という高齢者」など、いろいろなパターンがあるので、パートで働く人のすべてがこの程度の収入しか得られないというわけではもちろんありません。

しかしネガティブなパターンを考えてみると、国内の相対的貧困の実態がボンヤリと浮かび上がってきます。
「片親であり、子供はまだ手のかかる年頃」
「自身にこれといったスキルがない」
「自身に持病があり、長時間働くことができない」
「家族の看病や介護のため、まとまった時間がとれない」
「借金があり、その返済のために可処分所得が減る」
などの事情が2つ3つ重なれば、働ける時間はいとも簡単に減ります。
パートであれば「働ける時間の減少」イコール「収入の減少」です。

ここまで考えると、この日本にも相対的貧困の状態にある人が相当数いるであろうことが想像できると思います。

さらに、日本には相対的貧困を見えにくくする文化のカーテンがあります。
私は「恥ずかしさのカベ」と読んでいますが、日本人には「周りに助けを求めるのは精一杯がんばってから」「本当にやむを得ない事情があるわけでもないのに、助けを求めるのは相手に申し訳ない」「『武士は食わねど高楊枝』。苦労していることは隠し通すべき」という気持ちがあります。
苦労を表に出さないことが一種の美徳になっちゃってるんですよね。

周囲に「助けて」と言いにくい。助けを求めたら社会の落伍者になってしまう……
そうした思いが経済的困窮を包み隠し、せっかくの福祉が届くべきところに届かない。
最近よく耳にする「生きづらさ」という言葉の真因は、日本のこの「恥ずかしさのカベ」が関係しているのではないでしょうか。

日本では誰にでも福祉を利用する法的な権利があります。
しかし、社会がそれを認めるとは限りません。

「あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困に終止符を打つ」。
「貧困」のゴール達成のために、まずは国内の相対的貧困を直視してください。
よろしくお願いします。

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